織田信長の残虐的イメージに対する疑問

織田信長の本を読みたくなったので何冊か読んだ。

信長の一般的なイメージの一つに「残虐性」というものがある。個人的にそのイメージが本当であるのか疑問を感じていた。そのあたりのイメージを払拭する何冊かの本を読んでみて疑問が多少は解消された。

だいたい、歴史の授業で習う信長の残虐性を連想させるものは以下のようなもの。

  • 本願寺と一向一揆に対する壊滅作戦
  • 比叡山延暦寺の焼き討ち
  • 明智光秀への冷遇とそれに対する謀反での死
  • 鳴かぬなら殺してしてしまえホトトギス

壊滅作戦

現代人の我々が壊滅作戦を残虐だと思う理由に、罪もない平民を切り捨てたという解釈していることがある。しかし、織田信長(ちくま新書)を含めて幾つかの本では、戦国大名が女子供を含めた壊滅作戦を取ることは多くはないが全く行われていなかったわけでもなく、伊達政宗や豊臣秀吉も実行していたらしい。

つまり、壊滅作戦をとったから残虐だと思うのは早とちりであって、そこに明確な理由があったかが争点となる。正直、そこのところはちゃんと習ってきた記憶はない。歴史上の解釈では信長と対抗していた当時の一向一揆は、幕府や他の戦国武将と連携をとっており、1軍事組織として認識されていたようである。トップを倒して部下を味方につける大名同士との戦いとは違うため一揆相手には殲滅作戦を取らざるをえないところはあったのかもしれない。

信長と宗教

歴史の授業などで信長が南蛮品に興味を持ち、キリスト教も受け入れていたことから、仏教に対して敵対イメージを持っているという認識があったように思う。しかしながら、信長は本願寺の和睦を幾度となく受け入れ赦していることがわかっている。

信長は延暦寺に対しては出家として中立を望み、朝倉・浅井に手を貸すなら容赦はしないという通達を送っており、一方的に焼き討ちをしたわけではない。信長公記には「僧侶の道を外した、いわば出家失格である(だから焼き討ちした)」という特徴的な論理が残されており、これだけみるとむしろ信長は宗教に理解を持っていると人物とも見えなくもない。真摯な仏教徒ではないから制裁を加えるという論理は、仏教を敵対していたというイメージに一致していない。

本能寺の変の別解釈

こちらの本では光秀の謀反の理由は、当時信長は「京付近を自分の子孫で固め、秀吉・光秀あたりは朝鮮に飛ばされそうだったから」という内容になっている。

  • 信長は光秀を重用していた(信長公記より)
  • 光秀は優秀な戦術家であり、子孫の存亡がかかわらなければ謀反を起こすはずはない
  • 光秀が苛められたエピソードは秀吉が後日家臣に書かせた「惟任退治記」が元になっているが信長公記からは信長はむしろ光秀を褒めている

本能寺の変のことの真相は未だ不明ではるが、我々が一般的に認識している「光秀の怨恨説」は秀吉がその4ヶ月後に書かせた「惟任退治記」が元になっているようだ。

鳴かぬなら殺してしてしまえホトトギス

「鳴かぬなら殺してしてしまえホトトギス」は実際に信長が残したものではなく、江戸時代後期に創設された歌である。つまり、秀吉の「惟任退治記」が元に、信長が光秀を虐めて謀反を企てられたエピソードが散々創作された後であり、我々だけでなく江戸時代の人は既に「惟任退治記」によって信長の残虐性を連想しているのだと言える。

こうなってくると「惟任退治記」と「信長公記」のどちらに信憑性があるのかという話になってくるが、「織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!」の同じ著者の「本能寺の変 431年目の真実」では「惟任退治記」に信憑性がないという解釈になっていた。

  • 光秀の読んだ歌、その日付に改竄が認められる
  • 改竄があるということは秀吉が政治的な意図によって書かせた恐れがある

秀吉は「信長に政権管理能力がなく、織田家よりも自分が信長政権を引き継ぐにふさわしい人物であること」を強調したかった。それが一つの政治的な意図で書かせたという解釈である。

歴史の解釈の面白さ

歴史の解釈というのは見つかった史実の点と点を矛盾なくつなぎ合わせていく部分で、つなぎ合わせる部分には解釈する歴史研究者のそれぞれの予測が入ってくる。面白いのは同じ史実から全く異なる解釈が出て来るところである。実際読んでいても、

  • ○○だから☓☓である
  • ○○だがこれだけで☓☓とはいえない

といったパターンがでてくるので読んでいて混乱させられる。後者のパターンが用いられる際に「現代人の我々に当時の武将の考えが想像できるだろうか?」ということを付け加えられるともう最初から解釈するのは無理じゃん、と思ってしまう。

今回、読んだ本を信用すると、信長がその時代の他の武将と比べて特別、残虐的な行動をとっていたとは言い切れない。

結局のところ、信長の残虐性のイメージの根本は、秀吉が書かせた「惟任退治記」が元になっており、その影響はホトトギスの歌にあるように江戸時代からあったようである。

その「惟任退治記」の信憑性に関しては、秀吉が政治的な意図を持って書かせたという別の史実が見つからない限りはなんとも言えない。ただ、ホトトギスの歌は当人が詠んだものではないし、信長が他の戦国武将と比べて特段行ったことが酷くないのであれば、もう少し「惟任退治記」以前に光秀など家臣を虐げていたというエピソードが見つかっても良いのではないかと思う。やはり疑問は残ったままだ。