3年で辞めたkwはここにいる

3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代

読んでいるのだが、残念ながら半分くらいで飽きてきてしまった。いろんな現実の事例がでてくるのだが、よくよく考えれば確かにタイトルに沿った内容だ。

ただ、当事者の立場からすると、このタイトルの立場の人間はまさに自分であり、その自分はここにいて、自分の考えに基づいて生きている。自分自身が一つの解であり、現時点ではその他の解をいろいろ見せられてもあぁそうですか。でもオレはオレ。としか思えない。

読むのが早すぎたか、遅すぎたか。いずれにせよ読むタイミングを間違えたようだ。学生やまだ社会人3年たっていない人が読んだ方が良い気がする。

自分はどこで、どう間違えたのかわからないが、この本に出てくる昭和的価値観をあまり持ち合わせていない。何故だろう?

家庭を考えるとうちの両親はどちらも大学を出ていない。それゆえにこの昭和的価値観に対してはむしろ、劣等感を持っているきらいもある。母親はしきりに大学についてあれこれ言っていた。いま思うと、それに対する反発心があったのかもしれない。とうの本人は大学なんてどこでも一緒だと思っていたので、大学は通える近いところという理由できめた。大学で東京にくるなんてまったく考えもしなかった。当時は親に東京は空気が悪いから行かない。と言っていた。それなのに就職になると東京に行くことにしたのでその親はギャップに驚いたようだ。

ちなみに空気が悪いから行かないというのは一瞬本気だが、本気ではない。アメリカ出張の際は銃で撃たれるから嫌だといい、近々予定の中国出張では日本人は南京大虐殺を理由に石を投げられるから嫌だと言っている。これらはkw流のジョークである。(が、20%くらいはやっぱり本気かもしれない)

今でも日本の大学なんてどこでも変わらん。と思っているが、さすがに日本の会社なんてどこでも変わらん。とはいえないので、別に仕事で東京にくることにみじんも迷いは無かった。というかソニーがたまたま東京にあったからという理由でしかない。

ひょっとすると若者には大学と会社に対する考え方、その両方を聞いてみるのが良いのかもしれない。

大学を近くにしたのは、親に負担をかけたくないというのが世間体の建前だが、当時の本心としては早く自立したかったことから来ていたと思う。自立したいが故に親のお金で何かをするというのが嫌だった。だったら自分でバイトでもして、東京の大学に行けばよいのだが当時はそこまでするほど頑張り屋でもなかった。

大学院に進学したときも、本音は早く就職したかった。だがそのときは進学した方が就職に有利だという打算的な考えが働いた。大学院の学費はすべて奨学金など自分で払ったのだが、打算的な判断を正当化するための自分なりの抵抗だったようにも思える。あの判断をしたから今の自分がいるのだが、それは結果論であり、正しかったかどうかは今でもよくわからない。

日本の大学でたかが1年2年ちょっと研究もどきをしただけで就職先が大きく変わるとしたら何かがおかしいとしか思えない。それでいったい何が変わるというのか。しかし、残念ながらソニーの同期の8割くらいは院卒だった記憶がある。なんだかんだいってもまだ昭和的価値観は日本に深く根付いているようだ。

しかし、今は自分のお金でアメリカの大学の修士をとることを真剣に考えている。

最後に一つだけ誤解を受けそうだった昭和的価値観の一つ「新聞を読まない人間はバカであること」についてもの申す。過激な平成的価値観として「まだ新聞を読んでいるような人間は成功しない」という意見もあるようだが、自分は新聞を読むし、意味があるから読んでいる。(基本的に興味のある記事しか読まないが)たしかにこの時代新聞というメディアの価値は下がっている。だからこそ「新聞しか読まない人間」と「新聞”も”読む人間」は区別した方が良いと思う。

情報の得るアンテナはたくさん持っていたほうが良いことはそうだが、それとは別に紙で活字を読むという活動をするのは良いことなんじゃないかと思う。もちろん何の客観性もない感覚的な意見だけど。新聞しか読まない人も、情報をネットのデジタルデータでしか取得できない人間も何ら変わらないと思うよ。