脱原発というワードの違和感

脱原発という言葉の使われ方に違和感を感じている。以前から感じていたことだが選挙の前ということもあって一回書いてみようと思う。

原発に変わるエネルギーがあるならそれに向かって変えていくべきだというのは大部分の政治家や国民が感じているはず。そういう意味では国全体が脱原発に向けて模索しているということも言える。

議論すべきなのは、実際に代わりになるエネルギーがあるのか、あるならどうやって切り替えていくのかという話と思うのだけど、何故か取り上げられるのは今あるものもとっとと辞めろ派と、今あるものはうまく使ってフェードアウトしていこう派による対立である。こと「脱原発」という言葉を味方につけているのは前者の人たちで、後者の人たちは前者の「脱原発」派に反論する立場のため原発容認派とか原発推進派という呼び名を頂戴する。両者の議論を聞いていると「つーか、全員脱原発派じゃねーか。なにずれた議論しているんだよ」と思うことがあって、まず「脱原発」って言葉を定義しろよと思うことがよくある。

両者は「脱原発過激派」「脱原発穏健派」、「脱原発改革派」「脱原発保守派」とかあとは「左」とか「右」とかどちらかにあまり印象がよくない名称はいくらでもつけるできるし、過激派の人達が「脱原発」の象徴的な扱いを受けたいのは単に国民の支持を得たいからという側面がある。しかしいつもながら思うことは原発を辞めるということは結局のところ手段でしかない。目的は安定して安全なエネルギーを低コストで供給することであって強いて言えば国や国民が豊かになることであるはず。

民主党は消費税は上げないと言った。実際はどうだったか。結局のところ消費税を上げないというのも手段でしかない。目的は財源を安定させるなど別のところにあって消費税を上げなくても所得税など別のところがあがって生活が結局圧迫されるならまったく意味がない。消費税にしても原発にしても、全体でみれば局所的な話でしかなく全体のバランスを考えてどう決めていくかが重要でありそれが政治家の仕事なんじゃないか。

もちろんそういった国民の関心の高いその局所的な話で支持を得て政権を取りたいと考えるのは仕方がない、多かれ少なかれどこの政党でもやっていることだろう。ただ本気でそれを実現したいか、人気先行なのかは全体のバランスをどれだけ考えて語れるかにかかってくる。政権交代前の民主党もそこはかなり浅くて、消費税上げないのはいいけど、それはそれで置いておいてじゃぁ経済どうすんの?っていうところには納得のいく解は得られていなかった。底が浅いと全体で物事を語れないし、局所的な話をしても埋蔵金が出てくるとか、科学の進歩で自然エネルギーがものになるとか不確かなものに頼らざるを得なくなる。

そら消費税が上がらなければそれに越したことはないし、原発を辞められるならそれに越したことはないとみんな思っているけどそれだけ追求して国がダメになっても意味が無い。民主党政権で消費税を上げることを決めたときもマニフェストを守らない事自体は叩かれたが消費税を上げること自体についてはそこまで反発があったわけじゃなかった。国の借金や高齢化、社会保障のことを考えたら財源を増やさないといけないことはわかっていたので納得をしている人もいた。

確かに方向として向かっていても、今の政治家の決めるスピードだとなかなか変わらないんじゃないかという不安は確かにある。とはいえ、民主党が政権をとったあとや、ネット党首討論を見ていてもわかるのはわーわーいうのはいつも政権から遠い政党。逆に言えば政権から遠い(責任を取らなくていい)から強気に言えるのかもしれないし、政権を取るために強気に言わないといけないのかもしれない。「脱原発」だの「卒原発」だのといったワード先行の主張は聞きたくないしもう意味が無いと思う。ワード先行のマニフェストは局所的な部分で手段が目的化し、全体で見るといろんなところで矛盾がでる。それで政権を得ても人気取りのための主張だったら実現することはできないだろう。ワード先行の政党は野党として機能していればそれでいいんじゃないかな。