京都、自分探しの旅(後編)

ですます口調の前編から変わって、考察に入った後編はですます口調が消えています。

実は、大学まで滋賀県に居たので京都には何度か行ったことがあった。近すぎて旅行なんかはしなかったけど、何故か京都に行って懐かしい香りがした。

京都は不思議な街だ。何というか現代と過去が共存している街。

たくさん地下鉄がある割に、移動がしにくい。^^バスの方が良いのだが、バスもいくつも路線があって難しい。まるで迷路のような都市。似ているようでどこか合理的な東京とは少し違う感じがする。

寺がたくさんあって、雰囲気は時代を感じさせる。かと思い道路に目をやると何車線もあって、都会っぽさもある。

清水寺を下から見たときに凄いと思った。

どこにでもありそうな、石や木を積み上げるだけでものをつくる。もちろん今の方が燃えにくく、軽くて丈夫な素材が使われて建物ができているのだけど。。。何故そういったものに目を奪われるのだろう。

木造だからだろうか、それともあの形そのものだろうか。現代の建物はどうしてあんなに真四角なのだろうか。3重や5重の塔はどうして階ごとに屋根があるのだろう。無駄なのか。無駄じゃないのか。

古い建物と思いきや、所々に金の模様があったり芸術的な趣を見ることができる。普通のマンションにはそういうものがない。素材が古いとか、無駄だとか、そういう次元じゃない気がする。

ふと自分のソフトウェアの仕事について目を向ける。それまでソフトウェアを創ることはもっと芸術的な概念もあるのじゃないかと前々から思っていた。しかしやってることはものすごく製造業になっている気がしてそのギャップを感じることが大きくなっていた。今のままではおもしろい物ができないと感じていた。

そういうギャップを見つめ直すためのが今回の旅だった。

大量生産するためには製造業になるのは仕方がない。でもソフトウェアは1と0の世界。コピーするのは簡単。しかもWeb上に創ってしまえば配る必要もない。

しかし、芸術作品は見て楽しむ物。金閣寺だって見て楽しむのは良いが住むのはどうか?住むならマンションのが良いか?エアコンや電気がなければ住むのは厳しいだろう。じゃぁ金閣寺にエアコンや電気があれば良いか?でもそうすると世界観が損なえる。今の建物もやはり時代に即した建物になっているはずだ。

いろいろ考えたけれど、結論はでない。。。そもそもソフトウェアを芸術や製造業と簡単に分けることに無理があったのかもしれない。

それでも、いろんな寺を見て実感できたことが一つある。積み重ね。どこでもありそうな石や木でできている。もちろん、それを積み重ねる過程には相当な人や年月が掛かっているに違いない。

どこかそれをソフトウェアに当てはめたいと思う自分がいる。ソフトウェアだってそこらへんに転がっているライブラリや技術を駆使すれば情熱とセンスがあればおもしろいものができるんじゃないかって。

プロセス、プロセス、プロセス・・・プロセスは確かに重要。だけど、良いプロセスが良い物を創るとは思えない。良いプロジェクトが心躍る商品を創るとは限らない。プロセスは良いプロジェクトはうむだろうけど、本当におもしろいものっていうのはやっぱりもっと違うものからうまれる気がしてしょうがない。

情熱とかセンスとかいうと精神論になっちゃうかもしれないけど、やっぱり、今のままじゃだめだ。わからないけど、何かが足りないんだ。

一日京都を回ったくらいで結論がでるほど簡単なものじゃないし、継続的に考えてみることにする。

中田並みに世界を旅してみたい。一ヶ月くらい会社休んだら怒られるだろうか。